VALUE LIFE

生命を大切にする観点から、私の記憶、体験、知識などを綴ります。

悲しみを癒す 

何も特別に大きなこともない

そして予定も決まっていない朝なのに

不安とも呼べるような生気を奪う感情が

心の中を占めていて、時間が過ぎて行く。

 

わたしは

何かしなければと焦り出す。

 

 

何かって?

 

 

有意義だと思えることを

朝のうちにやっておきたいことを

家事を 食事の準備を 

それより心落ち着く何かを

深呼吸を 散歩を

 

 

そんな考えのどれにも絞ることができない

 

とにかく何かしなければと思うものの

何もそれらしい選択はせず

天気予報を確認するつもりのテレビを

いつまでも消さずに20分が過ぎた。

 

 

どうしたのだろうと自分を眺める

自分が跳ね返さないくらいの薄い関心を向けて

自分の心がどうしてしまったのかと

気遣ってみる

 

 

この落ち着かない感じはよくあるけれど

もっと今は 止められない衝動が混じっている

 

 

あまり感情をあらわにしないように

心掛けているつもりでも

顔に出たり、言葉に出たりしてしまうくらい

感情的なわたしが今は 何を思っているのか?

 

この感情を分別したとき

悲しみなのがわかった

 

 

悲しみなんだ

 

 

それは 穏やかな今日を生きるから感じられる

過去や未来の悲しみ。

 

 

心の中にまだ溜まっている悲しみや

幸せだから失いたくないと思う時に生まれるもの

 

 

考えれば次々と思考に捕まって

それに伴う感情が止められなくなってしまうかも。

 

 

こんなとき 何度か助けになった言葉は確か・・・

「この先、きっと良くなるんだ。」

・・・だったな。

 

 

家族にこの悲しみの話をするのは憚られる。

話したら長くなり、今日一日に支障が出る気がした。

 

 

でも

「悲しみを癒す」ことが、一番な気がした。

 

 

そしてもう一言。

 

この先もっと良くなるんだよ。

 

 

 

 

きっと、

「悲しみを癒す」と心に言ったからだろう。

 

 

そこから家事を始め、とにかく何かをした。

 

 

冷蔵庫の食材を切り、フライパンで炒めた。

面白かったのは、火が悲しみを焼き切っている気がし、

味付けに調味料を振りかける素早い動作の自分には

コミカルな人間像があって笑えてしまった。

 

 

自分がナーバスな時の家族との関係は特に

気をつけなければいけないが

充分に言葉を選ぶことができて

温かな時間が過ぎた。

 

 

遠慮することも無理することもなく

家族がそれぞれの今日を始めるまでの時間を

明るめの時間として過ごせたのでよかった。

 

 

おかげでわたしの中の悲しみは

まるで一過性のような顔をして 静かになった。

 

 

それからも、何かの拍子に、

一人になったタイミングで悲しんだ。

 

 

そして今度はカタカタとこのページの文字にして

それをバラバラにしている。

 

 

自分の未熟さと愚かさと不器用さと不正直さが

今までに残してきた悲しみだ。

 

 

深く癒されたかどうかはわからないが

今日生きて行くだけの力を編み出すことができた。

 

 

悲しみが無駄にわたしを腐らせてしまうより

生きることへの気持ちを強くすること。

それも 自分を癒す力を呼び起こす。

 

 

ついでに いつもより たくましく

家族にお願い事をしてみたり

自分がやりたかったことに時間を使ったり

がんばるより楽にできることの方に

比重を置いてみる。

 

 

いいよ〜

ありがとう〜

どうぞ〜

 

 

いつの間にか

そんな言葉のあるやりとりをしていた。

 

 

悲しみに気づいて始まった一日は

ずいぶん幸せに近づいたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分に罰を与えない

最近、理想通りに早く起きることができて

気持ちにゆとりがあり、朝のうちに日常の家事も

ある程度手掛けることができ、快適さを味わっていました。

 

いつもより早く犬の散歩に出たら、

いつも気がつく以上の

何種類もの鳥の鳴き声に驚いたり、

 

いつもより鮮やかな濃淡で草花の色が目に入って

足を止め、写真を撮りたくなったり、

 

玄関に入ってきた清々しい空気で

そのまま、掃き掃除や靴磨きをしたくなったり

 

気合を入れなくとも 自然にやりたくなることが

一日をスムーズにさせそうなことなので

ますます、早く起きた数時間が印象よくなり、

ゆとりあるということの恩恵を味わって数日。

 

今朝は、若干 二度寝したために

ゆとりを味わうためには、少しテキパキとしないと、

叶いそうにない感じがして たったそれだけのことで

予定が狂った時に近い気持ちになっていました。

 

そうすると、せっかく早く起きたことも

色あせてしまい、今で何度も経験したことのある

焦りや、重い気持ち、やる気のなくなるような考えが

わたしの中を占めていき、昨日まで軽く進んでいたことも

迷いから リズムを失っていきました。

 

そんな状態に陥った自分を責めそうになった時

「自分に罰を与えない」という言葉が不意に出てきました。

 

自分を責めそうになって、

自分がもっと苦しくなるような行動を

するところだったその時に思いついたこの言葉を

心惹かれるまま胸の内で くりかえし呟きました。

 

「自分に罰を与えない」と言ってみると

今まで自分にしてきたことの中にいくつも

「罰を与える」に値することがあったと気づきました。

 

振り返って、どんなことが罰に値するかしないかは

意外と判定しやすいものでした。

 

「罰」は自分だけでなく、他者にも

間接的によくない影響を及ぼしていました。

 

自分の失敗に罰を与えれば、いつかは人にも

必要以上に厳しくなっていました。

 

罰を与えることで一時的に物事の修正が効いたように思えても

長い目で見たら、解決には至っていなかったことには、

ただ 目を瞑っていただけのことでした。

 

自分に優しくする、自分を大切にするということの

難しさを感じていたわたしは、自分の機嫌をとることや

ご褒美をあげるという表現を聞いて真似してみたものの

それを良いなと思うことができずにいました。

 

でも今日それが、霞が晴れるようにわかりかけました。

 

わたしは、自分に罰を与えることを無意識に良いこととしてきたので

時々思いついたように いくら自分にご褒美をあげてみたところで

それは自分を満たすことにはなっていなかったということです。

 

自分にご褒美をあげたのに、後悔することがあったり

すっきりとした気持ちになれなかったりしていました。

そして、結局 自分をつらい気持ちにさせるようなことが

繰り返されるだけで、何も好転させられなかったのです。

 

良かれとされていることでも、常識でも、道徳でも

いつのまにか四角四面に当てはめてしまい、そのせいで物事に

違和感が生じていても、気づくのは難しいものです。

 

自分に深く染み込んだ考えが及ぼしている現状を見て

思い込みを柔軟に取り外したり、変えたりするのは

なんだかんだ言って難しいと思っていました。

 

でもそれは、自分に罰を与えるのが当然の価値観の中で

身動きできずに自分にとって罰となるようなことばかりに

手が伸びていただけです。

 

自分に罰を与えない

自分に罰を与えない

自分に罰を与えない

 

そればかりを自分に伝え続けたら、心がだんだん

解けてきました。

 

良かれと思って人に言うことも、良かったと思えなかったのは

自分に罰を与える思考が人にも及び、人にも自分にも

罪悪感を残すような話の展開になっていたからでした。

 

自分に与えているものが罰でなくなったら

本当に言いたかったことや

人としてのの温かい気持ちがもっと

ストレートに通じるのではないかと感じます。

 

どんな人も自分を好きで大切にできていたら

自分にも人にも罰を与えることはしないような気がします。

 

もっと違う形で物事を好転させるのではないでしょうか。

 

 

「自分に罰を与えない」

 

 

良い方へ向かう気がするので

この意味をもっと感じたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やる気がないとき

歳のせいも 体調も 季節や世の中の様々な事象も

気がかりなことも 人間関係の不具合なども

いつの間にか心身に影響を及ぼす一因ですが

 

私たちは些細なことで 気力が低下してしまい

そんな自分を持て余すことがあるものです。

 

そのままやる気のない状態を受け入れて

自然の姿で時をやり過ごしても、しばらくすれば

その状態の居心地悪さに居たたまれなくなり

本音とは裏腹に動き出してしまうため

思ったほどの回復や前進が見られない経験を

したことはあるでしょうか。

 

意外と動き出したら気が紛れてしまったがために

その後もなんとなくパターン化してしまい

じっくり休むこともなく適当な解決策を取って

なんとなく気持ちは優れないままということは

ないでしょうか。

 

私たちには、自分を動かす原動力もあれば

自分の感度を鈍らせて危機をやり過ごす防備力もあります。

 

動きたくない時にも頑張って 無理をして乗り越えて

それが良かったことも、そうでもなかったことも

わたしにも経験があります。

 

そういう、動きたくないやる気ない日を

ほんとに良かったと思える日に変えたくて

ヒントを求めています。

 

これはまだ良い状態だと思います。

 

気分は全く良くないですが、

自分はこうしたいんだというのが

浮かび上がってきているからです。

 

過去にもこういう流れはありました。

少しでも良くなりたい

今日より明日が良い日であって欲しいと

思っていた時期です。

まだ若く、人間関係や健康状態が悪化して

心の底で這い上がろうともがいていました。

投げやりな気持ちには度々襲われていましたが、

どこかで、完全には諦めていませんでした。

 

振り返ると、それを満足のいく形にするのに

人と比べると努力が足りなかったかもしれません。

 

苦手なことは複数の人とのコミュニケーションで

どこへ行っても途中から楽しくはなくて関わりが薄くなり、

結果、広がりの少ない世界となって、悩みは尽きないのでした。

 

そんな時期にも、好きな読書によって考え方の幅を広げることが

入り口になって、その当時よりは明るい世界へと駒を進めて

いくことができた人間の一人です。

 

そう考えると、やる気がないことは

今とは違う、今はいない自分へ移行する準備のような

大事な時間と思うこともできます。

 

最近のやる気のない日、心の叫びは

「ああー!お日様の光の中で、ボーーーっとしていたい!」

というものでした。

 

その日 それを実行はできませんでしたが

心の声としてはっきり認識し

口に出していたことで少し違いました。

 

何かしながらでもお日様の光を浴びるのではなく

ただそれをするだけなことが肝である気がして

一日の中でも

あえて 休むとか区切るとか

やめるとか 終わらせることが

なんだか良いことのように思えてきました。

 

やる気がなくなっていく背景には

周りから見たら休んでいるようでも

本人的には休んでいないという実態がある気がします。

 

よくよく考えれば無理のない話ですが、

なんと言っても疲弊してしまっている時には

頭も普通以上に回らず、惰性的に動いているようなもので

やる気の出ない自分を非難したり、嫌いになったりして

一人、そんな状態から抜けられなくなっているので

気づくということも難しいと思います。

 

やはり、やる気がないということにも

とても意味があるのだと感じました。

 

電源を落として行って、最低限できることが

「これだけ」となることで

新たなやる気を向ける対象が見えてくる。

 

残りのエネルギーが向かう先を

楽しみにすると、気持ちが少し楽になる気がします。

少なくともやる気のなさに目くじら立てることなく

受け入れて、どうにもならない時間も受け入れて

自分を非難することに時間を浪費しなくてすみます。

 

そんな捉え方を採用してみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日向の力

わたしの部屋は、家の中の狭い一角です。

冬の間は日照時間も短く、冷え切っています。

 

それでも南の窓から太陽の光が差し込む

その時間は、一人でいるのに落ち着く場所になります。

 

冬の日は特に こうも日向の暖かさは

よりどころになるのかと実感します。

 

机の上に散らばったノートやシャーペンや書類に

レースのカーテン越しの光が乗っているだけでも

気持ちが上向きになるようなものがあります。

 

暖房のあるリビングはまだ日陰で、

しかも全体的に陽が入らない場所にあります。

その部屋で、暖房にくっついているよりも

この狭い場所の方が、多少の肌寒さを我慢してでも

落ち着いた気持ちになれるのは 太陽光のおかげです。

 

自然界の一部である人間も 文明の利器との付き合いだけでは

バランスを崩して弱くなってしまうのが分かります。

少し寒くても 外に出て散歩したり、外作業をしたりすれば

元気になるようにできているのを実感できます。

 

日向でうたた寝してしまった時に、

それが小さな良い感じとして心に残っていました。

 

たとえば

元気のない時には 無理や我慢をしないで

日向でぼんやりしていてみるというのは

良いことが多いのだなあと思いました。

 

たまたま日向の中にいた自分は その力を吸収していて

人にも自分にも優しくなって、

ま、いっかと思えるくらいに落ち着いていました。

 

タスクを気にして 時間に追われる気持ちになり

人のペースが受け入れられなくなっていても

自分ひとり、日向にいる時間を確保していたら

思っていたより簡単に癒されているものだなあと思いました。

 

お日様の光満ちたこの空間を 文字にしてまで

こんなに幸せに味わうことをしてきませんでしたが、

 

味わうほど 高揚した、何か特別な気持ちになり、

この光の中にくるまれて細胞ごと生まれ変わりたい

くらいの蘇生感で、全てが温まっていくようでした。

 

忘れがちな、味わうという感覚も

この暖かさの中で、増えていっています。

 

ただただ ここにいたいと願う。

 

日の光が薄くなり、やがて部屋の気温が下がり

この場所にいられなくなるのも数時間足らず。

 

 

日向を求め、恩恵に浴し、この感じを持って

日常に反映するものは、同じように暖かく

家族を温めるものであることを願って。

 

 

深呼吸をしている。

 

いつの間にか、意識してもできなかった

深呼吸をしている。

 

四季を通し陽光と共にある地帯に住む私たちは

冬の日々を過ごし 春が来るのを待っています。

 

北欧諸国のような冬を明るく過ごすための方法を

初めて知ったときは、とても魅力的に感じ、

長い冬をみんなで乗り越える知恵と美的センスと

優しくし合う文化が融合し、素晴らしいなと思いました。

 

活動的に動けない季節の心構えと楽しむ気持ちで

こんなふうに成熟した生活を作り出せているというのは

真似してみたいと思うほど心惹かれました。

 

 

しかし、雪もなく どこにでも移動できるくらいの

気軽な冬を過ごしているわたしは、ひだまりの中で充分

心身の健康を保てる程度の光に恵まれていて、

その憧れの暮らしに寄せた生活をしたいと思ってみても

さほどやらないことが やがて わかったのでした。

 

 

日向にいるのと日陰にいるのとでは、活動意欲が

違うのを感じていますが、夏にはこの日向に圧倒されて

日陰で同じような、心の落ち着きと深呼吸を味わうわけで

それを通して、季節の醍醐味を感じているとも言えます。

 

 

不思議な思いと感謝と、なんとも言えない心地よさだけを

味わいながら、きっと 今 充電されていると思いました。

 

 

日当たりのよくないところに住んでいるから

それがより一層感じられるのかもしれません。

 

 

日が陰ってからの部屋は、どんどん気温が下がって行きますが、

太陽はまだ、空を明るくしています。

 

 

気持ちだけは太陽を追いかけて、

一度 庭に出ようかと迷う夕暮れです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当の言葉

世の中には、普段の暮らしの中や、

創作物の中に、心揺さぶられるもの、感動や

思いの伝わる物事がそこかしこにあるものです。

 

慣れ親しんだ、飽き飽きした日常に

つい感謝することや、幸せな気持ちを見過ごして

つまらない日にしてしまいそうな時にも、

見つけたいと望めば、出会うことが可能です。

 

気持ちが荒れるような時間の後でさえ、

いつしか心から温かいものが溢れ出し、

新たに違う心でもう一度 小さな一歩でも

前に進もうとするものが生まれてしまって

気持ちが変わっているということがあります。

 

人は無意識に、自分の背中を押してくれるような

個人の人生にリンクするヒントや共感のような

言葉を求めていることもあるかもしれませんが

 

それだけでなく 思いやりや博愛を感じることにも

心が動かされる本能的感覚があるのではないでしょうか。

 

特にこういうことは、単に言葉だけでは

証明されないものであり、綺麗事とか

偽善とか言われることもあります。

 

実際見分けるのも難しいところもあると思います。

 

多くの情報が、求める前に届けられるような時代に

その競争についていくのに精一杯で、

情報を納得のいくように整理できてもいないし

鵜呑みにしたことによって翻弄される思いをすることも

多々あり、それにも慣れていく状況では、「流される」

ということが発生し、表面上の大きな流れとは別に、

水面下の自己は 実は不安と混乱が揺れ動いている・・・

というのが実態ではないでしょうか。

 

我先にと、利益優先と、先取りしようと、

行動を早くした者が勝ちで、遅れを取ったり

人に譲っていたら負けていく・・・

そういう構造は 世の中にスピードを持って

何かと展開して大きく事業を広げていく力を

人間に身につけさせた面があると思います。

 

そうした発展やピラミッド構造社会の中で

本当の言葉と感じられる言葉を、私たちは

どれくらい聞くことができるのでしょうか。

 

毎日のスピードが早くて、気持ちを自分の中心に

戻す暇もないまま、次々と時間を使っていくうちに

周りと比べ、自分の意見をすり合わせて決めたり

違和感を持ちながら、対応を見つけられず 

そのせいで 心身のバランスを崩していたり、

自分の本当の言葉を確定する前に、動いていく物事に

無力さを肯定し、流されることにしたりという形は

何かしっくりこない気持ちを抱えることになるのでは

ないかと思います。

 

人間は、すべてのことを知ることはできないものの

物事を見極めようとすることは自ずと求めるのでは

ないでしょうか。

 

多様性と言われるようになっての今、大きな流れだけでなく

個人や小さなコミュニティーのような動きも、同時に

力強くなっていく事は、実は良いことの方が多いのでは

ないかと思います。

それは 元気な国というのも、それが世界でも

一人一人が元気なのが良いからです。

 

 

そして、本当の言葉を言えて、言い続けられる人が

多くいるようなら、私たちは簡単に諦めたりせずに

毎日を新しくお互いに優しくし合って生きる方向に

発展していくのではないでしょうか。

 

 

心洗われる、真の愛を感じる言葉や出来事に会うたび

この気持ちは確信が深まるものです。

 

 

本当の言葉を意識することは、

少し自分に厳しくなることかもしれません。

 

 

「本当の言葉」とは、本当のことを言わなくてはいけないという

意味よりも、いかに見極め、それに対する自分の本当の気持ちを

認識し、確立するかという感覚へ意識を強めるということです。

 

 

これは、きっと誰でも持っているものでしょう。

そして自分という人を色鮮やかに、豊かにしてくれる

ものでもあると思います。

 

 

そんな意識で世界を見てみたら

明日からが楽しみになるかもしれません。

そして、喜怒哀楽の血流が増し、何かしたくなって

自分のできることが増えることにもなるでしょう。

 

 

生き生きとした毎日に近づくには、

自分の人生を自分が生きる、自分が創る

そんな気持ちがあった方が良いと思います。

 

 

各々が本当の言葉を自信を持って語る時、

ゆくゆくはパズルのように全体の形は出来上がっていき

それぞれの生まれた目的や理由に基づいて

世界の中の1ピースを生きるイメージです。

一枚の絵のように見えますが、近づけばピースの

個性が見えてきて、欠かせないひとつだと分かるのです。

 

 

誰かの理想の世界ではなく、

個人の 最大によりよく成長した形のことです。

 

 

本当の言葉から生まれるものが

私たちの世界をよりよくしていく力があるように

感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を保つ 

人に影響を受けやすいと気づいていたのに

なかなか良い自己対応ができていませんでした。

 

朝起きて、比較的良い状態の自分も

その後、見たり聞いたり会ったりした事で

非常に良くないところまで気分が波立つ事が

よくあって、精神的にそれが積み重なって

気が小さく不安定で機嫌の悪い人物のように

出来上がっていくのがなんとなくわかっていました。

 

そこには、人に合わせる気質的習慣が

大きく関与していますが、まず自分を優先することを

良しとする考え方が欠如していたと思います。

 

なので、自己主張の強い人に飲み込まれやすく

自分の方を小さくして生き残る手法では

ますます生きづらく理解されづらくなってしまいました。

 

よくよく考えると、ありがたいことに

もう、わたしの周りには元気な人しかいないのかも

しれなくて、延々と続くかのようだった時間の流れが

変わり始めているのを感じます。

 

 

それで、わたしとしては自分の方を強く大きく

空間や力のようなものを確保するように動くのが

妥当なことに思えてきました。

 

これは、良い傾向だと思います。

 

人の気持ちは完全にわかるわけではないし、

余裕のない自分には大して役立つこともできないのだから

中途半端な態度で悩みを増やすのは望みではないのです。

 

自分の個も大事なもの。

 

個の本当の気持ちと、

ふと そうしたいと、考えずに動いたことも

感じたことも どちらも わたしに存在するものです。

 

 

自分が何で出来上がっているのかというと

環境や、見てきたもの聞いてきた言葉や音、音楽・・・

そういう周りからのものと

生まれ持った気質や体質、個人の色みたいなもの

ではないかと思います。

 

 

その集大成が気にいる状態になっている時

自分のことが素直にいいなあと思え、もっと幸せに

大切にしようとする意欲も自然に湧いてくる気がします。

 

人にそうするように、ちょっと距離や礼儀を持って

好きなことや嫌なことを確認したり、丁寧に扱うことは

心満たされることに繋がるので、不可欠です。

 

好きなことばかりしていると偏ってしまいそうですが、

好きな気持ちが広がり、充実した良い気持ちが大きくなると

心身には思いも寄らない良いことがあるようです。

 

目的地にただ向かっている時に、

自分が気に入っている音楽に浸っていたり、

気持ちを高めてくれたり落ち着かせてくれたりすることを

脳内に保ちながら移動していると

目的地に着いた時には、出発した時とは違った感情で

ものを見ていて、予想していたよりも良い体験が

できることがありました。

 

これが、

自分を好きでいられるような状態に近く

うまくいっているように見える人たちも、

自分の中にこのような自己を持っているのではと

想像しました。

 

ドキュメンタリー映画のように、人の姿を追ったなら

あるパターンが浮かび上がりそうです。

 

わたしを追ったなら、多くのツッコミどころが目に付く

映像になるのではないかと思います。

 

その中で、今これを整理しながら書いている姿は、

周りからの影響の比較的少ないわたしと言えます。

 

好きな自分の状態と、そうでもない状態がありますが

書き終えた時には、少し良い状態に近づいているので

これはわたしにとって、自分を保つのに大きな役割を持つ

作業だと思います。

 

ゆっくりと自分と向き合うことが人生のどんなタイミングで

持てるかは人によって違うと思いますが、能動的にそれを

組み入れていけたら それは、良い意味で強力な自己を作る元に

なるものだと感じます。

 

わがままなようでも、それを躊躇する人ほど

窮屈に縛られた、人間らしくない考え方が染み込んで

しまっているだけかもしれません。

 

 

周りの人がどれくらい自分を保っているかに関係なく

この自分を大きく内側に保って力強くいるか。

 

ここは、もっと大切にする方がいいと思います。

自分が存在する理由にも通ずる、この個性。

なんとなくそう思ったから・・・ということの根拠が、

学んだり教えられたりしたものより感じるから言えること。

 

それに従い、生きている人に出会うことがあります。

知らなかったけれど、今は それが人の魅力のもとであると

思うようになりました。

 

そしてそれは、わたしの中にも断片のように存在しています。

 

そのかけらの色を濃くしていくと、元々はどんな絵だったのか。

徐々に見えてくると思います。

 

それが楽しみになるように、

感慨深くその絵を見る自分を想定して

時間と空間を過ごしたいと思うので、

その為の工夫や、ヒントが入ってくるように

今日何か、好きな事一つ、やろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

背中で見る

私は 挑戦します。

 

子どもに

聞かせる言葉は 

穏やかな気持ちになれるものだけに。

 

生まれ育った環境を思う時、

そこに引き戻されるような苦さはいらない。

 

毎日、ここまでがすでに

いろいろな思いを飲み込んで成長してきた。

 

その上で尚、畳み掛けるように聞こえる様々な言葉が

自分の呼吸を感じる時間をなくす。

 

生まれた時に ありがとうしか言う事がなかった。

生命が輝いて、毎日 大きくなった。

 

これから起こるであろう成長過程の通過に

言いたくないことを言わなければいけないか否か

頭の隅に引っかかっていた。

 

一生懸命、与えるならよい影響を与えたいと思って

無い頭で考えて、小さな心で先行きを案じながら

間違いたくないと思って進んできた。

子どもが成長すれば、何度もお手上げな気持ちになった。

 

ただ楽しく、ただオリジナルの関係で

毎日が豊かに過ぎて欲しかった。

 

それだけでよかったのかもしれない。

 

親の役目の正解を私はどこかに描いていた。

人と比べて 頑張るべき点を見つけた。

ずいぶん頑張ったけど、私たちは笑顔を減らした。

 

 

再び 笑顔を増やしたものは、趣味のような

どっぷりと自分の時間に浸れるもの。

言葉を交わす時間は減り、子供の笑顔は増えた。

 

 

もう一度

ただ楽しく ただオリジナルの関係を

思い出せそうになった。

 

 

未来への道中で、

どう歩いていくかを手探りしている時、

もう歩いてしまった大人の言葉は

威力がない方が良いのだろう。

 

 

背中を押すか、成長を促すか、良さを引き出すか・・・

それができないなら、

笑わせるか、リラックスできるか、元気になるか・・・

それができないなら、

何も言わないほうがマシである・・・。

 

 

穏やかな気持ちになれる空気と翼を休めて英気を養える環境・・・

それだけでいいんじゃないか・・・。

 

 

お手上げな気持ちになる時、

うまく言えない気持ちを結局 伝えようがない時、

それでも、このままではいけないと気が焦る時、

 

無理をしている自分が少しずつ見えていた。

 

私の思いとは全く違うトーンで今を生きている子ども。

その空気を背中で感じながら、言葉を選ぶ私は

何の言葉も適切ではないと感じている。

 

相手が何気ないことを聞いてきて やっと

いつもの私が何気なく喋る他愛もない事が言えた。

 

私の中の葛藤している言葉を出していないので

空間に出た言葉は、呑気に日常を送っている人のように

特に印象にも残らない平坦なもので、干渉を含まなかった。

 

私が育った環境には、干渉がいっぱいあった。

それが普通で、それに文句を言うと

感情をぶつけられ、何時間も気持ちが乱れた。

 

その記憶は長く残っている。

声も感情も思い出し、何度でも蘇る。

親と自分の行動が影響しあっているイメージ。

家庭の中に潜在する 虚しさや不安を感じていた。

 

 

私はずっと、それとは違う道を行きたかった。

だから そのために努力した。

かける言葉をなくしたら、

親としてどうにもならない焦りがあった。

私が聞いてきたような聞きたくない言葉しか

私の頭の中にも残らなくなっていた。

 

今、見えていたのと違う道に差し掛かった気がしている。

 

私は、子どもではなくて自分の前を見ようとしている。

そして今日、私は背中で子どもを見ていた。

 

子どもの態度によって 背中で語ってしまっているかも

しれないが、背中を向けた時、私は語る気持ちから

見る気持ちへ変えていきたいと思う。

 

 

私の親が私のことをわからなかったのと同様に

私も子どものことをわかる親とは言えない。

 

こうやって日々 スタンスを確認しつつ、

親も子もいい表情でいられたらいい。

 

 

数日後、さらに交わした言葉が減った。

 

その代わり、子どもが考えている事が

見えやすくなった。

 

本当の気持ちが見えると、また更に多くの言葉を

言う理由がなくなった。

 

私が伝えたことは子どもの体を案じてのことだけになった。

 

続けよう。

 

少し溝ができたようで寂しい気持ちもある。

でも、子どもが楽なほうがいいだろう。

 

挑戦である。