死を受け入れる
つい先月には、飼い犬は亡くなってしまった。
一年ほどの病気治療を経て、最後の半月は歩けなくなり
痩せて、酸素ハウスに出し入れし、呼吸は苦しそうだった。
付き添って寝ていたが、明け方 呼吸が緩やかになっていて
やっとこの子は少しは眠れそうかと、わたしも今は
触らず寝ておこうと今思えば都合の良い解釈をして
そのまま寝てしまった。
朝には冷たくなっていて、家族でそれを確かめるまで
呼吸があるのかないのか確信が持てなかった。
家族がしっかりしていたから、お葬式も納骨もできた。
家族はわたしよりもこの子との別れを覚悟して
日々を過ごしていたかもしれない。
先のことなど考えないようにして看護に注いでいたわたしは
少しでも良くなれば過大に期待していたかもしれない。
たくさん関わった分、反省も後悔も、キリがないとも言える。
わたしの中の執着は、幼少の頃に死んでしまうのを見た
ひよこの記憶に紐づいている。
看病している期間、それが頭にちらついてその意味を
追い続けてもいた。
あれが不正解に思えて、今度こそは正解に辿り着きたかった。
そんな欲があった。
なせあんなにすぐに死んでしまったかの答えは
当時、今と同じ思いには耐えられないに違いないということだ。
親の死も経験した今でさえ、10年近く共にした飼い犬が
寿命より早く死んでしまうことは受け入れがたい。
ずっと泣いているとか、ペットロスなんだと自覚するとか
そこまでではなく、今まで通りに見える日常を送っている。
それで済むかと思っていたが、どこかおかしくなっていて
二日後には、運転中、ぼーっとして前輪が縁石に乗り上げ、
車を痛めてしまったくらいで済んだものの、
家族に頼ってレッカーや代車の手配をしてもらい、
近隣の方々に助けてもらった。
普段危ないから気をつけている場所でのことなのに、
そうなった時、心がそんなに何も感じていなかった。
面倒なことになったのはわかっても、
やるべきことはわかっていても、
自分のエンジンも止まっていた。
心と体を今に引き戻すかのように、
物事が進んでいき、無事に家に帰ることができた。
わたしは、こんなに長く犬といたことがなかった。
だから今こんな気持ちになるのだろうか。
犬というより、一つの個性だった。
今のわたしのために
「これに懲りずに、また犬を飼ってくださいね。」
と言ってくれる犬好きな人。
「この寂しさは、犬を再び飼うことでしか埋まらないよ。」
と教えてくれる犬を子供のように愛してきた人。
その言葉はそうかもしれないが、
今のわたしには胸に押し寄せる圧であり、
素直に聞くことはできない。
縁があれば、そういう流れになれば、
そうするかもしれないが、ただひたすら
この時間を静かに過ごしたいと願ってしまう。
見ると気が重くなるものや未使用な物も
貰ってもらったり処分したりしていて
手元に残るものは少なくなってきた。
今日は、ブラッシングしていたブラシに
僅かについたままになった犬の毛の匂いを嗅ぐ。
捨てられなかったけれど、今日は捨てた。
もうあの子に使うことはないから、
捨てて良いと思うことは、わたしが
あの子の死を受け入れようとしている行為だと思う。
人にあの子の死の話をするとき、
まだ受け入れたと言い切れない気持ちが顔を出す。
こうして1ヶ月ほど経って
あの子がいる気配と重なって仕方ない物音を聞いては
静かに安心感を覚えたりもする。
あの日常の何でもない日に聞いていた音が
あの子のいなくなった今日にも聞こえている不思議。
今のあの子の何がわかるわけでもない。
懐かしむわけでもない。
ただきっとあの子にもわたしたちにもより良い今が
あって欲しいのは確かだ。
あの子がいて補ってくれていたものや、
繋いでいてくれたものがなくなったのを感じる。
空間は人間だけのものになった感じだ。
それでも、家族それぞれがあの子を思って
いつでもお墓参りに行けるように
各々の車にお線香を乗せていたり、
なるべく前向きに過ごそうとしているのは
あの子がいて、あの子が残していってくれた温かいもの、
家族をまとめてくれた存在だったことのお陰だろう。
日常が穏やかに過ぎていく日は
あの子がいたことを思い出せる。
思い出して涙も出るし、落ち着いている。
あの子のことを書くなら、今だと思った。
ルーツ
「やったー!」・・・なんて言いながら
鏡に向かって心から笑っているのは
どれくらいぶりだろうか。
”わたしと飼い犬が、一晩中 眠ることができた。”
それだけのことが今朝のわたしに活力をくれている。
わたしが寝る部屋には暖房がないけれど
湯たんぽがあれば暖かく眠れる。
飼い犬はそんな部屋にやってくる。
何とか温かく眠れるように試みていた。
布団に入ってくることもあったから、入っても良しとした。
すると 今度は暑くなるのか
それはそれで 長くはいられないようで、
一度は場所を替え、明け方には暖房のあるリビングの
自分の寝る場所に帰っていく。
たまに他の家族の部屋へ行く日も同じのようだ。
もっと快適に寝床を整えてやるのは
やらなくてはいけないことだが、
昨日、やってみたことが格段よかった結果が出て、
やはり従来のやり方では寒かったのだなあとわかった。
少し気持ちが晴れている自分の顔や
内側から込み上げる安堵に、
今日にワクワクするとまで自然に思ってしまう。
その時、なんでこんなに嬉しい気持ちになったのか、
その理由が知りたくなっていると、
急に自分の幼少期からの記憶につながった。
お祭りで買ってもらったヒヨコが
一晩で死んでしまうのを 経験したことだ。
春先のお祭りの夜だから、まだコタツが出ており、
夜はそこに入れて寝た覚えがある。
朝には、固く横になったヒヨコの姿があり、
庭にお墓を作って埋めた。
ショックを受けたのか、泣いたのか、
今は記憶も曖昧だが、
どうして何をしても一夜にして死んでしまうのかと
考え続けたのを思い出す。
実家で鳥やリスを飼っていたこともあったが、
特に思い出もなく時がすぎた。
ある時、兄弟が5匹の動物を拾ってきた。
生まれたばかりのようで、犬か猫かわからなかった。
動物病院に連れていく発想もなく、
その動物を世話しようと、夜は抱き抱えて寝た。
そして朝、冷たくなっていた。
なぜかこんな記憶に結びついて
無自覚だったことを自覚しかけているところだ。
わたしは 動物が好きとは思っていないし、
世話が得意でもないし、感情をぶつけてしまう時もある。
現に犬を飼ってみて、うちの犬が幸せとは思わない。
なのに日常、わたしの気持ちは
犬に持っていかれている。
家族たちより、犬のことを考えたり悩んだり、
怒ったりもしながら、関わっている。
動物が好きと公言する気にはならない。
犬が好きと言うことも特にない。
でも、わたしの行動は、犬により良くしたい
願望の塊になっている時もある。
自分が好きなことって何だろうか?
と思い巡らせてしまうことが
わたしには、よくあった。
「過去の記憶を辿ってみましょう」
などと聞くたびに 考えて思い出してもいた。
思い出すことを、試しにスポットライトを当てても
長続きはせず、それがなくてストレスになるほどでもない。
いつもモヤモヤとした気持ちが拭えない。
”より良くしたい”とは思う。
そこにかける情熱をどれくらい持てるのか
わたしはとことん向き合ったことがない。
けれども、一つはこうして
動物に対して、何か感情があるのだと気づいた。
わたしにもルーツの中に見つけることができたという、
そんな感覚。
あまりにも自然に価値観の中にあったのだろうか。
自然に動物の今の感情が気になったり、
共感しているような気がしたり、
観察したりしていた。
孤独な気持ちだったけど、
動物や植物が身近に存在していた幼少期。
孤独の良い面を感じているのも
その時の 一人で目を凝らしていたしていた時間から
受け取っていたものだろう。
庭や縁側や家の片隅で一人でいる自分を
いつでも思い出せる。
その時の体感や、自分だけの発見や景色。
自分なりに愛していたんだなあと思える。
当たり前にあった風景の
当たり前だった体験の中に
今のわたしを培った要素があったことを
しみじみと受け止めている。
ポッカリと空虚に感じていた自分の内側に
何となく確かなものが見つかって
とても落ち着いた気持ちになった。
そして人と話している時も
自分の気持ちを感じていながら
相手の気持ちも落ち着くような会話になっていた。
こういうわたしが出来上がった経緯に
ひとり納得しつつ、充足も感じて
自分の内側が今も温かい。
地球はすごい
稚拙な表現になってしまったが、
地球はすごいと何故だか実感している。
とても個人的な感想である。
地球は常に産み出していて、朽ちたものを呑み込んでいく。
だから、地面に素足を置いたとき感じるものや
豊富な海水に浸ったときに包み込まれる感じは
大きな大きなものが私たちと切り離せないところにあるのを
少しだけ感じさせる。
わたしは、庭や道すがらにある草木をよく見てしまう方で
そこにいつも愛しさのような、または感動のようなものを
胸に集めて帰ってくる。
そして、何だか少しでも
その美しさとエネルギーのようなものを見ていたい、
今のその形とその姿を抽出したいような
気持ちに駆られることが増えた。
絵は昔描いていたが、根気がなく修練しなかったので
思うようには描けないから、描きたいと思うこともなくなった。
画材も今は色鉛筆くらいしか残っていない。
それなのに毎日姿を変えゆく草木を見る日々に
せめて少しだけでも描きたいと思った。
はじめに拾ったのは初夏に咲いたネムノキの花だ。
繊細な形状を目でなぞり、濃く華やかな色をさし、
薄く淡く全体像を形作ったら、横においた花とよく似た絵が描けた。
何だか大きく深い満足感があった。
胸が温かくなるし、地球が生み出した一つの花の存在を
クローズアップしている気持ちになる作業のようで
花とわたしの共に持つ地球が生み出したものの
共鳴のような感覚かもしれない。
それから後、書くために拾ったのは
色付いた楠の葉。
たぶんカエデであろう葉。
ヒノキの葉。
まだそれくらいだが、一枚の紙に一つの絵を描き
その存在を味わっている。
そうすることで、地球を味わっている。
絵を描くこと自体は 描くほどに、見た通り描けないことや
見たつもりが実際の線の数がおかしくてバランスが悪いなど
ちっとも上達もしない。
その時に感じた美しさや存在感や持ち合わせた特徴を
その場に表せた、ということだけである。
地球が生み出したものの小さな一部と
それを描く小さな一部が今日も大きな地球に
載せてもらっている。
地球の存在感をこうして感じている。
そして地球はすごいと声が出てしまった。
そして今の胸いっぱいの感情を表現しておきたい
気持ちになった。
声
朝から、水道の金属部分を磨いた
苦手な塩素系の液体で浴室を掃除した
シャンプーやせっけんを置いているラックを洗った
これは毎日気になっているのに
普段の家事では手が届いていないところだった。
今日はこれをやるぞ!と前向きな気分でやれた訳ではない。
でも、自分の中での会話がうまく機能した感じがあり、
その自分が今までになくよかった気がして、書き記したい。
始まりは、早く目が覚めてしまったのだが、
昨夜のわたしはこんな気分だった。
「また寝るの遅くなってしまったな
寝る前に静かな自分の時間を取りたかったのに
もう寝ないと明日困るもんな
目に入ること、できてないことはスッキリしないけど
とにかく寝なきゃ・・・」
モヤモヤしていて自分の中に溜まっているものに
それに自分がやられている状態。
自分の弱さやエネルギーのなさに失望してもいた。
積極的に物事を進めることができず、
人に頼むことは悪く考えてしまうせいで最低限で、
滞っている物事から解放されずにいる。
どうにも苦しくなっても
助けを求めることが苦手なわたしは
煮詰まって、わたしに助けを求めた。
神仏に助けを求めるということがあるし、
人間からは計り知れない自然の法則や、
宇宙に存在するもの全てを生み出したものの存在を
思い出せば、人間が独力で生きるものではない存在とわかる。
でも、心が弱っている状態で助けを求める時
何が助けようとしてくるのか怖い気がした。
それで、最もわたしを助けようとするのはわたしだと
いう感覚で、わたしに助けを求めた気持ちで
「助けて〜」と心の中で叫びながら眠りに落ちた。
夢の中では、わたしの不安になりがちな設定の中、
安心できる立ち位置を得たわたしが、行動的な人が楽しく
人と交流の場を作っていくのを見ながら微笑ましく、
少し羨ましく思っているのを見た。
目覚めた時から、気になることが目についた。
湿度の高いこの季節特有の湿気と汚れもその一つだ。
衝動的でもなく、感情的でもなく
わたしの中の声がわたしに厳しい声を発した。
「容赦してる場合じゃないよ!」
「これぐらいサッサとやっちまえよ!」
「我慢すんなよ!」
「塩素?いちいち そんなものにやられるなよ!」
「カビなんか許してる奴は、
低級な奴に容赦することになるんだよ!」
浴槽を洗い始めて、長年使っていて劣化していた洗面器を
ようやく捨てようという気になった。
浴室のカビを掃除し、流して、自分もシャワーを浴びた。
髪を乾かし、顔にクリームを塗る。
「もっと贅沢に使えばいいじゃないか!」
「もっと太っていいんだぞ!」
「そうだ!あれ買ってみろよ!」
言い方は荒いが
「自分のためになることやればいいんだよ!」
という、わたしを力付ける言葉だった。
裏を返せば、
全くのところ自分の尊厳を削りすぎてたことが
日常にも支障が出ていたのかもしれなかった。
人と比べ過ぎてもいた。
自分がどう考えるかがずいぶん後ろ向きになって
人の顔色を伺い、思い切って前向きに捉えてみても
今度は極端な絵空事にもなりかねなかった。
めんどくさいで括ってしまえば、ますます
やる気がなくなるし、状況は見えなくなった。
自分の弱さに飲み込まれていた自分を何ともできず
行き詰まっていたけれど、自分の中の声が
自分のためだけにアシストしてくれるようで
助けられていると感じた。
声が浮かび、従うほど 自分主導を体験した。
声は、最近ショート動画で流れてくる
奥さんを愛してやまない故に「休んでろ!俺がやっとくから!」
と家事を自分からどんどんやってくご主人みたいだと思った。
そうならわたしの中の男性性なんだろうか?
わたしが一人二役だからアシストなのは仕方ないだろう。
だけど明らかにわたしは心強かったな。
弱点を鋭く突きつつ、わたしを力付けてくれた。
そういう存在の自分が姿を現したようで嬉しかった。
地に足がついて背筋が伸びるような気持ちなのは
とても気分がいい。
家族が起きてきてからも、じんわりとそれは続いて
距離感も落ち着いた感じに収まっていて、
頑張る感じもなく、自分の時間もできた。
何を今言うか、言わないかもあえて「声」に聞いてみると
焦りに似たいつもの感じが消え、間を持つことができた。
そうすると、何だか心につかえたものが薄れて
夫までもが、目に映る日常に感謝の気持ちを持つような
会話をしてから出かけていくという、いつになく穏やかで
ゆとりの感じられる時間が生まれた。
滞っていることはいくつもあるが、
焦りでタイミングを見誤って失敗していることを考えると
今日のような形でも、ある分野では一歩進めることができて
今のわたしに無理なく適切な優先順位を教えてくれたと思う。
良い意味で 昨夜には想像のつかなかった今日を過ごした。
次は、
わたしの寝室を掃除して少し新しく買い替えたいと思う。
全部幸せなんだと考える
浴室の窓にカビを見つけてしまった。
普段の掃除も、それほどきちんとできていないので
初めてのことではない。
けれども
ここのところ 家事が手いっぱいに感じるほど
気持ちに余裕がなくなっていた。
しかも浴槽にお湯を張っている最中である。
取り急ぎ
消毒用アルコールで できる限り拭き取った。
気持ちに余裕がなくなっていたのは
周りの事情や体力的なゆとりのなさはあるのだが、
自分の時間の使い方も雑になっていたのだと思う。
ものの捉え方や考え方の癖が思い込みになって
日々の感情は一定の時間固定されるから
気づいてどこかの時点で入れ替えていかないと
わたしは長時間苦しむことになる。
気分を変えるための行動や
楽しむためのエンタメコンテンツ
自然に触れてみたり
動物と居てみたり
体を動かす喜びを感じるための縄跳び
空気を一掃する拭き掃除
そして
自分の気持ちや感情を見て考える時間
自己整理の時間。
意識してこれらの時間を過ごしてみるのが
昨日はとてもよかった。
生きているんだということや
今自分がこれをしているんだということを
いつの間にか認識しなくなっていて
自分の感覚は何かに紛れて
価値を感じなくなっていたようなものだった。
小さなことでも自分が幸せを感じられることを
することは いつも有益で大切なことだ。
その結果
寝る時間には小さな幸せ感をたくさん持っていた。
そして
現実を見つめる時の緊張感や迷いや不安定さを
振り返っても それらの中にも幸せが含まれていると
感じているし知っていることに気づいた。
思い切って言うと
全部幸せの一つ一つのようなものである。
体調を崩したり、気持ちが乱れたり、余裕がなくなったりで
幸せの部分だけ見えなくなってしまう。
思い切ってさらに
全部幸せなんだと考えてしまったら
自分の中で言い切ってしまったら・・・。
と、そのまま
今日の幸せだったことを書き出してみた。
一つ二つと書きながら、
次な何があったかと考えていると、
心は恐る恐る
それ、幸せって言ってもいいのかなあということまで
出してくる。
・・・たしかに 幸せに入れて良いことだ。
と、書き加えていく。
そうしているうちに
浴室の窓枠にカビがあったことさえ
幸せなんだということに入ってきた。
理由は
カビを気にすることのできる余裕、
カビがあったからすぐに掃除できた、
そういう生活の落ち度を気にできるのは平和である。
全部を幸せだと決めてみた世界に浸かってみて、
あれほどに余裕をなくしていたわたしは
布団の中の暖かさが一段と幸せに感じられて
よく眠ることもできた。
今朝は寝坊もして
家事の始まりが遅くなったのにもかかわらず
できていないことがあるのにもかかわらず
家族がそれぞれ自主的に 静かに滞りなく動いている。
いつもより遅れて玄関のたたきを拭いている時
涙がこみ上げてきた。
わたしは最近、
時間の使い方やペースを変えた方がいいと
感じていてなかなかうまくいかないことに焦っていたが
まず必要だったのは幸せを味わう時間だったんだと実感した。
現実を見たら、
自分の不安や頑なな気持ちに動じたり
孤独な時間は変わらなかったりするけれど
外側がどう見えるかも
自分の意識のありようであり、
こうして変化を感じることもできるのだから
見えない自分の内側を観て、愛し、潤し
エネルギーを注いでいたら良いのだろう。
自分に余裕がなくなって苦しくなった時はもちろん
普段からその方がきっと良いのだろう。
今は慣れていないけど
増やしていくことはできる。
理由は
今、心から笑えているからだ。
食品表示
夫はわたしが出会った20代の頃にはアトピーだった
自律神経失調症でもあった
会社に苦手な上司がやってきて、ただでさえ
きつい仕事が逃げ場もなく苦痛になり
アトピーがひどくなっていった
自律神経の方の薬も飲んでいて
食生活の好みはジャンクも多かった
本格的に体を治し始めた頃
食べ物のパッケージの食品表示を理解した
食べられるものが減っていき
限られたもので済ませることに少しずつ慣れていく日々
そんなとき、駄菓子の詰め合わせをいただいた
夫は、以前なら 好きで食べていただろう菓子たちの
裏にある表示をよく見つつ、食べられそうなものは
食べるつもりで初めは明るくパッケージを裏返していた
そのうち、声は抑揚が大きくなり、笑いつつも
心は半泣きで 全部を捨てた
それから次第に、夫も食べるものを変えながら
好きなものも食べながら、苦労して完治した
温熱療法やお風呂でデトックス
栄養価の高い食品や素材の良い味噌や塩
普通のスーパーでは買えないものが多く
何年も出費の中心になった
治療中に出会う人に、食べ物の話をするとき
夫が「オーガニック」と言うようになった
あれもダメこれもダメなら、何を食べたら良いのか?
アレルギーの出やすい食品以外にも、
安全なものかどうなのか、見分けて選びたいものだ
原材料を辿ったときに混入してくる不自然なものが
できる限り少なく、栄養価が失われず、加工の少ないこと
そういうものがオーガニック表示のものには
多いように思うから夫にも伝えた言葉である
でもそれも、全部が安心し切れるものではなく
手に入る原材料が限られる実状から
しっかりした内容の物も、
一部はあまり信用できない思いになるような物もある
内容を極めていて高価と感じる物も多い
そのせいで、オーガニックという言葉が
一部の特異な人間が求めるもののような空気を感じ
わたしは買い求めはしてもその言葉を使うことがなくなった
使えば使うほど 特別感を醸し出してしまい
新たにオーガニックを求めようとする人の敷居を
高くしてしまう気がするからだ
昔は安全に食べられたものがなくなり、
表向き美しく、流行っていてみんなが大好きな
一口目からおいしいものにすり替わって
何も困らないようでいて、ゆっくりと体質が変わっていく
そこに抗って、本来の健康に戻りたいと望んだとき
本当に元気にしてくれるものを探さなければならない
「オーガニック」の表示はその手がかりの一つで、
そうした手がかりを、いつも探している
周知されている情報
ひっそりと埋もれるように見つかる大事な情報
日本と海外、今と昔の違いからも
知っていることとは違う情報が見つかる
手がかりを載せた食品表示にも変遷があり
安心が増すこともあれば、
見分けることが難しくなり
想像で選ばざるを得ないこともある
今日も、食品表示を見たし
買ってから失敗したなと思うこともある
自給自足まで手が届いていない
私たちのように、同じ思いをしている人もいるだろう
「買い物は投票」という言葉を見たことがある
わたしは今選んでいるものを
作ってくれる人がいなくならないように
体を作る大切なものが
自然からなくなってしまわないように願っている
投票だと意識することはないけれど
買うときは表示を見て
より安全で自然な方を選んでいる
オーガニックなどど書かなくても
表示をしなくても
安心して手にできる食品がある社会
みんなが元気でいられる社会には
これも必要なことではなかろうか
歩き出すために
ソワソワと落ち着かないとき
わたしの中では、今までと違った動きを求めていて
周りとの兼ね合いではない状態に向かって
考えるより体が先に動き出そうとしている
周りの動きによって変わる自分の動きには
随分慣れ親しんでいるから
その合間に思い浮かんでいた
こうしたいなとか、これはどうかなという思いを
流して形にせずにきたものが
どうやら溜まっているのかもしれない
年が明けてから 背中を押されているとか
風に押し出されているという感じがしていて
考えた末 保留にしていたことも
ちょっとずつ決断していって「やる」ことに
したものもある
行動力のある人、決断力のある人、機転の効く人・・・
そうした速やかに動いて前に進んで行ける人に
憧れている
自分に足りないところを気にして
機会そのものにも臆するようになり
それが結局どんどん自信をなくすことにもなり
失敗を許せなくなってさらに動けなくなって
何も試すこともできなくなった
進むために納得のいく理由や準備が必要だと
心底思っていたが、
いつまで経ってもそれを満たすことはできていない
手を伸ばさなかった自分に苦い思いをしたり
手を伸ばしたことに胸を撫で下ろしただけだったり
したけれど、期限切れにホッとすることもあった
まだ このような行動に不自由さを感じる段階だ
でも、こうした試行錯誤している時間が
わたしの歩き出そうとしている意志そのもので
とても良いことだと思う