VALUE LIFE

生命を大切にする観点から、私の記憶、体験、知識などを綴ります。

食品表示

夫はわたしが出会った20代の頃にはアトピーだった

自律神経失調症でもあった

 

会社に苦手な上司がやってきて、ただでさえ

きつい仕事が逃げ場もなく苦痛になり

アトピーがひどくなっていった

 

自律神経の方の薬も飲んでいて

食生活の好みはジャンクも多かった

 

本格的に体を治し始めた頃

食べ物のパッケージの食品表示を理解した

 

食べられるものが減っていき

限られたもので済ませることに少しずつ慣れていく日々

 

そんなとき、駄菓子の詰め合わせをいただいた

 

夫は、以前なら 好きで食べていただろう菓子たちの

裏にある表示をよく見つつ、食べられそうなものは

食べるつもりで初めは明るくパッケージを裏返していた

 

そのうち、声は抑揚が大きくなり、笑いつつも

心は半泣きで 全部を捨てた

 

それから次第に、夫も食べるものを変えながら

好きなものも食べながら、苦労して完治した

 

温熱療法やお風呂でデトックス

栄養価の高い食品や素材の良い味噌や塩

 

普通のスーパーでは買えないものが多く

何年も出費の中心になった

 

治療中に出会う人に、食べ物の話をするとき

夫が「オーガニック」と言うようになった

 

あれもダメこれもダメなら、何を食べたら良いのか?

アレルギーの出やすい食品以外にも、

安全なものかどうなのか、見分けて選びたいものだ

 

原材料を辿ったときに混入してくる不自然なものが

できる限り少なく、栄養価が失われず、加工の少ないこと

 

そういうものがオーガニック表示のものには

多いように思うから夫にも伝えた言葉である

 

でもそれも、全部が安心し切れるものではなく

手に入る原材料が限られる実状から

しっかりした内容の物も、

一部はあまり信用できない思いになるような物もある

内容を極めていて高価と感じる物も多い

 

そのせいで、オーガニックという言葉が

一部の特異な人間が求めるもののような空気を感じ

わたしは買い求めはしてもその言葉を使うことがなくなった

 

使えば使うほど 特別感を醸し出してしまい

新たにオーガニックを求めようとする人の敷居を

高くしてしまう気がするからだ

 

昔は安全に食べられたものがなくなり、

表向き美しく、流行っていてみんなが大好きな

一口目からおいしいものにすり替わって

何も困らないようでいて、ゆっくりと体質が変わっていく

 

そこに抗って、本来の健康に戻りたいと望んだとき

本当に元気にしてくれるものを探さなければならない

 

「オーガニック」の表示はその手がかりの一つで、

そうした手がかりを、いつも探している

 

周知されている情報

ひっそりと埋もれるように見つかる大事な情報

 

日本と海外、今と昔の違いからも

知っていることとは違う情報が見つかる

 

手がかりを載せた食品表示にも変遷があり

安心が増すこともあれば、

見分けることが難しくなり

想像で選ばざるを得ないこともある

 

今日も、食品表示を見たし

買ってから失敗したなと思うこともある

 

自給自足まで手が届いていない

私たちのように、同じ思いをしている人もいるだろう

 

「買い物は投票」という言葉を見たことがある

 

わたしは今選んでいるものを

作ってくれる人がいなくならないように

体を作る大切なものが

自然からなくなってしまわないように願っている

 

投票だと意識することはないけれど

買うときは表示を見て

より安全で自然な方を選んでいる

 

 

オーガニックなどど書かなくても

表示をしなくても

安心して手にできる食品がある社会

 

みんなが元気でいられる社会には

これも必要なことではなかろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩き出すために

ソワソワと落ち着かないとき

わたしの中では、今までと違った動きを求めていて

周りとの兼ね合いではない状態に向かって

考えるより体が先に動き出そうとしている

 

周りの動きによって変わる自分の動きには

随分慣れ親しんでいるから

 

その合間に思い浮かんでいた 

こうしたいなとか、これはどうかなという思いを

流して形にせずにきたものが

どうやら溜まっているのかもしれない

 

年が明けてから 背中を押されているとか

風に押し出されているという感じがしていて

考えた末 保留にしていたことも

ちょっとずつ決断していって「やる」ことに

したものもある

 

行動力のある人、決断力のある人、機転の効く人・・・

そうした速やかに動いて前に進んで行ける人に

憧れている

 

自分に足りないところを気にして

機会そのものにも臆するようになり

それが結局どんどん自信をなくすことにもなり

失敗を許せなくなってさらに動けなくなって

何も試すこともできなくなった

 

進むために納得のいく理由や準備が必要だと

心底思っていたが、

いつまで経ってもそれを満たすことはできていない

 

手を伸ばさなかった自分に苦い思いをしたり

手を伸ばしたことに胸を撫で下ろしただけだったり

したけれど、期限切れにホッとすることもあった

 

まだ このような行動に不自由さを感じる段階だ

 

でも、こうした試行錯誤している時間が

わたしの歩き出そうとしている意志そのもので

 

とても良いことだと思う

 

「知恵」を選ぶ

朝から

時間の流れや周りの動き、人との関わりが始まり

自分の心や体の声とは関係なく 起き出し動き始める

 

ひと段落しても頭の中に

今日をいかにこなしていくかの方向で巡らす

思考の波と焦りや緊張があって 途切れることなく

何かしなければならない気持ちでいっぱいになっている

 

だけどそれを

もしもなかった状態なら、本来何を考えているのか

何を思いついてそこから繋がる思いや発想にどんな気持ちが

生まれているのかと思った

 

世界のすべてが陰陽にに分けてしまえると考える説もあるが

そうなら、焦りと緊張に張り詰めているわたしは

自分らしく元気に生きている人の対極のようで

「陰」の側を生きていると言えるだろう

 

仮に 多くの人々の中で今のわたしが自分を「陰」だと

感じているとして

 

一人でいるときの自分を ずっと「陰」だと

感じていられるだろうか?

また、わたしより「陰」に見える誰かの前で

わたしはどうなるのだろうか?

 

そんなことを思い巡らせながら

呼吸が落ち着いてきて 気持ちが軽いのや

足取り緩やかに歩いている自分を心地よく感じ始めた

 

さっきまでわたしの頭が追い求めていたのは

わたしを消費するように使っていく何かだった

 

自分には何もない気がするとき、

何かに使われても 自分が何かしたことのカウントを

増やしたくなってしまう。

無意識に。

 

でも 今 求め始めているのは、「知恵」だ。

より良くしたいと望むものの腰の重い人間が

喜んで歩み出し、生きる喜びに近づくと感じられるような

割と普遍的な大小の知恵である

 

 

「知恵」を求めているわたしは

「わたしはこうしたい」「わたしはこうなりたい」がある

 

 

たぶんこのとき直感的にもなっているのだろう。

 

 

ボーッとする隙間を作る意味があまり見出せなくて

瞑想することもなく 一日が過ぎてしまう方なのに

 

わたしにとっての一つの入り口みたいなものが

見つかった気がした

 

 

日々わたしは、「知恵」に助けられているし

実はそれを考えている時間が長いのではないだろうか?

 

 

思考の「陰」から「陽」に転じられるのは

「知恵」にアンテナを巡らせているとき!

 

 

不充分ではあるけれど

今のわたしの言い方だとそういうふうになる。

 

 

「知恵」を求める気持ちは前向きだから

固まっていた思考も感情も変化していくことになり

焦りと緊張で見えなくなっていた目の前に

風が入り、陽だまりができていく

 

 

勇気に押されて歩み出す一歩の

小さな怖さとワクワクがある

 

 

それは心地よい感情。

 

 

それが本来の人間らしい姿で

自分らしいと感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一歩引く

そろそろ寝たいと思う時間になって

洗濯をし残していたことに気づいた。

 

これから洗濯機を回したり

手洗いしたりしていたら、

一時間以上かかるだろう。

 

それでも 洗濯カゴを空っぽにしたい為に

お腹の中にじりじりとした嫌な気持ちを

湧き立たせながら自動的に手を動かすのは

いつものことだ。

 

思考のせめぎ合いの末、そんな自分の落ち度に

がっかりしながら、イライラしながら、モヤモヤしながら

なんとか元気を出してやり遂げていた日々。

 

そんな残業のような状態について当たり前に

思っていたけれど 疲れが溜まって翌日に持ち越すことが

嫌になってきて、時々は自分に課すのをやめるようになった。

 

ある時は力尽きて無念にもやめて、

ある時はやる気がなくなってやめて、

ある時は時間がなくなってやめて、

できなかったということを引きずりながら

その引きずっていることに疑問を抱いたのが

始まりかもしれない。

 

 

 

 

今日も、やり終えるつもりだったのに

放置していたそれを 見つけてしまった。

(心地よく一日が終わるはずだったのに。)

 

もう何度も「やめる」ことができていたから

あまり長く考えずとも

「今日はもうやめよう」と思えた。

 

そうしたらもう、やらない世界を濃くしていこう。

 

明日の洗濯量は増えてしまうが

なんとか干せるだろう。

 

自分の時間に置き換える方が何倍も

明日に良い影響を及ぼすはずだ。

 

 

 

早々に歯磨きを始めた自分を心地よく感じ、

この 落ち着いた気持ちになる選択をしている姿は

突き進まずに一歩引いている状態だと思った。

 

わたしには、ついつい

突き進んでしまうよくないところがある。

 

人間関係においても、自分に余裕がないのに

人の話を聞いてしまったり、人のことをしようと

しがちなところが抜けない。

 

そういった自動的な動きから脱却するのに

ちょっと苦労している。

 

冷静になるよりも自分の負の感情に

引っ張られていくような感じだ。

 

言わなくていい時にも

やらなくていい時にも

 

今言わなくてはいけない気がして

今やらなくてはいけないような気がして

 

無理をするしかなくなっていた。

 

その結果、悪循環にはまり

あれこれうまくいかなくなっているのに

どうにもできない自分になっていた。

 

 

 

でも今気づくのは、自分が無理をするのをやめ

気持ちもスッキリしていること。

 

自己犠牲的に進んでしまうパターンから

一歩引くことができるようになっていること。

 

よくない方に突き進んで、

そのまま突き進んでもうまくいくはずもなく

自分で気づけないままだったところから

少しずつ、変わっていたんだと気づく。

 

この変化は小さなものかもしれないが

変わっているという小さな実感は喜びで感動だ。

 

 

そういえば 人間関係においても

数々の後悔を経たことは、一歩引くことが多くなった。

 

そうしていたら、自然に休む時間ができて

意識は自分に良いことをする方に変わり始めた。

 

それまでのわたしは

自分のプライベートタイムは、一人で過ごし

無防備な姿をあまり家族もに見せたくなかった。

家族の前ではいつも何か家事をしていなくては

いけないかのように落ち着かなかった。

 

今日のわたしは、

洗濯を明日に回してできた時間に

このブログを書くことができて幸せで

 

しかも家族のいるリビングで

椅子に立て膝で座り、その膝に顎を乗せ

顔をしかめたり、首を傾げたりと

自分の世界にはまり込んで

寝る前の一時間を過ごした。

 

 

変えたいと感じていることも、

変えなければならないと思ってしまうから

抵抗が大きくなって結局思うようにならなかった。

 

その途中にある ちょっとした動作が

わたしの中にだんだん染み込んでくれて

いつの間にか わたしの思い込みを

緩めてくれていたんだと思う。

 

わたしは喜んでいる。

あくびをしながら、幸せである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「めんどくさい」の行き着くところ 

以前、

「めんどくさい」を考える、という

話を書きました。

 

わたしの中の「めんどくさい」という思いは

変わらなくても、意識は少しずつ変わり、

「めんどくさい」と思うことの中にある

何かを完成させたり、丁寧に扱ったりすることには

憧れのような良いものと感じています。

 

めんどくさいと避けるのではなく

自然に取り組むわたしだったら、もっと

家族の平常の生活が豊かになるだろうと

どこかで考えるようになっていました。

 

しかし今のところは、

家族がめんどくさがる行動を先取りし

合理化を試みるも わたしが自分の仕事を増やす

という、あまり楽しくないやり方しかできていませんでした。

 

結果として、意気込みは霞んでいき

なんとなくモヤモヤしながら、諦めきれずに

なんとかモチベーションを上げられないものかと 

様々なインプットに重点を置いていました。

 

 

そして動画を見ている中に

安東英子さんという整理収納のプロの方を

知りました。

 

その初めに見たものは、

脱衣所に下着置き場を作らないで!という内容でした。

 

理由が深くて、安東さんの経験上、

そうしている家の子どもが、家族が

「めんどくさい」と日常的に口にしているそうです。

 

元々の日本でも、大体の海外でも

そこに家族の下着を常時

置いていることはないそうです。

 

それが 便利で合理的な方法として

多く採用されるようになったけれども

些細なことをめんどくさいと言って毛嫌いする

人間を作ってしまうことになっているのではないか。

そのような捉え方の当人が人生に向き合う時

物事をめんどくさがらず真摯に向き合っていく人と

大きく道が分かれていくのではないかという危機感を

語っておられて、深く根本的なその内容が響き、

ちょっと衝撃でもありました。

 

我が家も当てはまっていましたし、

めんどくさいという理由で 生活のあれこれが

省略されたり、その場しのぎの対応を続けたり

しているところがありました。

 

 

いつの間にか 便利さをよしとして

この方が楽でよしとしてきたことに

慣れてしまいながら

これで良いのだろうかと思っていたのに、 

迷いと疑問があっても答えがわからないままでした。

そして 時間が経ってしまいました。

 

 

そして わたしが作り出してきた時間の蓄積を

振り返って、本当にどうしよう!という気持ちになりました。

 

 

今からでも、わたしが怠っていたことも

気づかなかったことも 諦めかけていたことも

できるだけなんとかせねば!

 

 

そしてその気持ちから やっと

小さな行動へつながりました。

 

 

少しずつ、物を減らし、拭き掃除をし、

絨毯を変え、カビを拭き取り・・・という具合に

手を動かす力になりました。

 

これまでも時々はスイッチが入って

同じように 急に動き出すことはありました。

 

でも 少し違っているのは、

目に見える結果を感じることが気持ち良いと感じ、

きれいになった場所、空間、個体が目に入って

ちゃんとできたときは より気分が上がるんだと

感じていることです。

 

 

素直にそのような感覚がわたしにあったことは

発見のようなもので、ちょっとした驚きを感じます。

 

 

わたしは少しだけ、「めんどくさい」と思っても

それに捕まらないために考えるようになりました。

 

それに捕まらないためには、「自分はどうしたいか?」

そこに目を向けるのが 大切なことの一つです。

 

めんどくさいことを通ってまでどうしてこれをするのか。

 

そう思ってみたら、本当の望みがあると気づいてくると

思いました。

 

 

わたしの場合のめんどくさいは、

目先の困難を予測した時や、

うまくいかなかった経験と重なってしまった時、

反射的に発してしまいます。

 

そこで、反応だけが暴走して、そこに捕まって

感情的になり 消耗してしまい

先に進むことも、満足を得ることも

そんな想像することすらできなくなります。

 

こんなパターンで、

気持ちもすっきりすることはありませんでした。

 

つまりは、「めんどくさい」ことに対して

それを自分はどんな姿勢で受け止め、

選択するかしないか見極めていないので、  

ただ目先の瞬間的な感情にやられる状態を

繰り返していたということになります。

しかも、結構な時間・・・。

 

この経験は味わい深いものとなりました。

 

「めんどくさい」より

なんらかの「満足」を作り出したいと思う、

今の気持ちは「ワクワク」です。

 

このささやかな願いを持ち、

「めんどくさい」を「心地よい」へと

ジワジワ移行していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発想の転換

落ち着いたた気持ちで生きているはずが

人の話を聞いているうちに うらやましくなったり

人と比べてしまって居心地が悪くなってしまったり

まだまだ 未熟な心というか落ち着き切っていない

心のざわめきが噴出することがある。

 

今の自分に満足していないのもあるし、

思うようにいかないことがいくつもあると感じているし

毎日 さほどやる気に溢れているとは言えない。

 

その満たされなさから 試行錯誤して

様々な考え方にも触れれば、

自分の今までのあり方やこれからの生き方の

方向性や選択肢についても考えさせられる。

 

無意識に人と比べてしまう時、

自分が劣っているのを見つけて先に進むのをやめてしまう。

 

例えば、誰にでも笑顔で接する人、素直な人、が

成功していくとかチャンスを掴みやすいとか好かれると

誰かが発言していたとすると、わたしは抵抗を感じてしまう。

 

笑顔を褒められ、素直と言われたことも記憶にあるが

それは苦しみや緊張を感じながら生み出した笑顔であり

素直に耳を傾け 従っていた時には、人に嘘をつかれたり

素直ではないと文句を言われたりして認められない気がした。

 

結局は 真の笑顔の人でも

素直な人でもなかったということになるのだろう。

 

心から笑顔が出て、素直な心でいたことが

その中にも少しはあったと思う。

 

でも、わたしはそれをやめていった。

 

自分に正直になりたかったからだ。

 

そして今、前向きな気持ち気味なのに

かつてやめてしまった、誰にでも笑顔とか

素直な・・・とかがやっぱり良いものだとなった時

 

わたしは当てはまらないと思ってしまった。

確かにうまくいっていない要因と言われても

自分でも納得がいってしまうくらい当たり前の話だ。

 

ストレスの蓄積や考え方の癖、

過去の記憶が先導して、毎日の機嫌を左右する。

 

それを凌駕するほどの笑顔と素直さを

今のわたしは持っていないのを感じた。

 

そんなことを思ったら、ますます気持ちが

ねじ曲がり、苦しくなった。

 

わたしの性格のよくないところ、

ひねくれたところが猛威を振るう。

 

前向きなんだか投げやりなんだかのせめぎ合いで

気持ちが定まらなくなってしまう。

 

もうすでに、落ち着いていることはできなくなって

少しでも気持ちを立て直したいと試みる。

 

そのうち、もう一度元に戻って考える。

 

その時のわたしの一番 前向きな答えはこうだ。

 

あまり笑えなくなったわたしが

もっと笑うことをしよう。

 

わたしは別に素直な人間ではないと

思っていよう。

 

頑なになってしまった心を責めても変えようとしても

笑顔にも素直にもつながらない。

 

 

真の笑顔は作ることはできない。

素直さは自然なものである。

 

 

自分の心を和らげる方を優先すべきと

わたしは思った。

 

苦しい時にわたしは発想の転換を試みる。

発想の転換に逃げようとする。

 

そして思いがけない出口に出る。

 

自分がある意味限界だったんだと後で気づく。

限界だったけどなんとか先に進めた経験は

何かと後で役に立っている。

 

 

自分の欠点を受け入れることはなかなか慣れないが

よく見ればわたしの反応は、欠点に直面し

お手上げだと騒いでいるようなもので

自分が丸ごと出てしまっている。

 

 

それをきっかけに、またわたしは今

落ちついた気持ちの自分に戻っている。

 

 

次はもう少し、受け入れられそうな気がする。

自分をよりよくしていけたら喜びである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネムノキの花

そう・・・

あれは もう暑くなり始めた頃だ。

犬を連れて行った公園で

木陰を作ってくれている樹木をふと見上げた。

 

晴天の青と 芝の緑を背景にして

大きく枝を広げたその木があった。

 

その枝についていた花は濃いピンク色だったが

一つ一つの花の印象は微かで、ふんわりとしたものだった。

 

あまりにも樹木と花と背景のコントラストが美しくて

わたしを引っ張る犬を留めつつ、しばし見惚れた。

 

 

数日後。

わたしの身近なところに

同じ樹木が自生しているのに気づいた。

 

特徴的な あの花が咲いていた。

 

初めてその花咲く樹木の名前を調べた。

ネムノキだとわかった。

 

植物の名前を知るのは好きだが

近年はあまり新しい名前を知ろうとしていなかった。

 

わたしは 

身近に見つけたネムノキを見て嬉しかった。

 

 

後日。

足元に落ちていた ネムノキの花を拾った。

 

 

はっきりと見えていなかったその花は

極細のペンで引いた線ほどの繊細な花弁が

扇状に一つになった、珍しい形をしていた。

花のがくから真っ白な線が始まり、

ときめく鮮やかな濃いピンク色へと変わっている。

 

いいものを見つけたように嬉しくなって

手のひらに乗せて持って帰った。

 

羽毛のようにふうわりと揺れる花弁は

まだ華やかな色合いを保っていた。

 

それだけで幸せを感じた。

 

絵に描いてみたいと思ったが

一日、二日が過ぎて、花は薄茶色に変色していった。

 

今年の花は終わりかけて、

この花に出会うのはまた来年になってしまう。

 

でもなぜか、わたしの中では

ネムノキの花に出会ったことが大きく残って、

生きる希望の一つになった。

 

普段の変わらない流れの中で

何がこうしてみずみずしい気持ちを発露させるのか

わからないものだなあと思う。

 

少なくとも、

季節に沿って花を咲かせる植物は

こうした影響力を持っていて、

私たちは元気や癒しを受け取っているのだろう。

 

優しい気持ちや、安らいだ表情や笑顔が

その時間には あった。

 

ラナンキュラスオールドローズのような

整って華かでふんわりした姿には、 

目を奪われていつも惹かれてしまう。

 

それとは全く違うが、

ネムノキに親しみと感動を持ち

予想外に 出会いだったと思い至っている今

いっそう そんな思いになった。

 

今はもう花も終わってしまった。

花が終わったネムノキは

周りの木々の中で 存在感が薄くなったが

わたしは、これから折に触れ

その存在を確認したくなるだろう。