VALUE LIFE

生命を大切にする観点から、私の記憶、体験、知識などを綴ります。

好き嫌い

私は決断力があまりない方で、優柔不断だと

言われることもあります。

 

もしかしたら いろいろなことを受け入れていると

ちょっとそういう傾向が強くなるのかなと思います。

 

その中でも 心底 受け入れるか

表面上、受け入れるかといった違いでいうと

表面上の受け入れではないかと思います。

 

自分の本当の意思では 物事は

受け入れる、受け入れないに対しての思いは

あるのですが、受け入れなくてはいけないと

思ってしまう心の習慣があると、大急ぎで

消化しようとして右から左へ処理するような

受け入れ方になってしまいます。

 

遠い昔に、自分の存在を無力に感じて

自分の気持ちを主張するのが苦手になってしまった

私は、ごくわずかな身近な人にも

自動的に遠慮がちな態度や相手の意思を優先する習慣を

持ち出して、かえって困惑させることがあります。

相手の厚意を無にしてしまうような結果になって

関係がぎこちなくなることもあります。

 

 

心から受け入れている状態ならば

もっと自然で大らかな人でいられそうですが、

その大らかさというのは、自分のことを

スルーすることで成り立っていることが

優柔不断だと言われる結果につながっています。

 

 

体験から考えるに、自分の気持ちを顔に出すことは

あまり良くないことと認識しています。

 

不機嫌そうな顔や、イヤそうな顔は嫌われます。

不平不満や感謝のない感情は口にすると嫌がられます。

もちろん誰にとっても気持ちの良いものではありません。

 

いつも気持ちの良い態度をしていれば 人間関係も

うまく行きやすく、幸福感にもつながります。

 

子どもの頃、可愛らしくない感情は親の反感を買い

私は、自分の感情を押さえようとはしたものの

自分を平常心に保つことが長くはできず

思うようにはいきませんでした。

しかし 親と仲良くなるために 段々

そういう態度を受け入れて行ったのでした。

 

学校や社会で、家庭で学んだように

受け入れる態度で生きていると

どうも自分の存在が 薄くつまらなく

感じられるようになりました。

 

話のできる人は いるにはいますが、

複数の人のいる場は居心地が悪く感じました。

 

家で受け入れられる自分になるために

努力してきたことは裏目に出ていて

個性のない優柔不断な一見優しい私は

話の輪に入るのに苦労し、みんなの会話の

ペースについていけず、面白くなくても

せめて笑顔を作っているか、目をキョロキョロさせ

会話に入れるところがないかと窺っているだけの

浮いている存在になることがしばしばでした。

 

何が この状況を変えるのだろう・・・?と

長い間、疑問でした。

 

人間関係の悩みから解放されるために

様々な本を読みましたが、私にとっては

勧められている行動のハードルが高く思えてしまい、

すぐに変えられず、苦しい時は続きました。

 

私にとって苦手なシチュエーションに

人が悪口や不満を言い合うというのがありました。

 

また、自分の好みをはっきり言う人がいると

それによって実は傷つく人もいるかもしれないことが

気になって仕方なく、ソワソワしてしまうのでした。

 

しかし 私以外の人たちがそれらを自由に話して

私が思うほどお互いに生きづらくなっていないと

気付くようになって、次第に考えが変わりました。

 

ここに至るまでに、あまりに悩んで試行錯誤も

捉え間違えて的はずれになり、私が嫌だなあと思う

そのことを結局 私自身がしてしまったことも

ありました。

 

たとえば、みんな思った事をそのまま言う

コミュニケーションをやって通じ合っていると

解釈したために、人の好みを否定するような

言い方で自分の意見を言い、その場を

凍りつかせたことがありました。

 

私が中立に見ている事を、ものすごく否定的に

思っている人との会話では、相手の機嫌の悪さに飲まれ

結局、相手の言葉以上に否定的な会話をする羽目になりました。

 

こうしたことが起こるのは、私が自分の意思を

ないものであるかのように扱って、周りを優先して

迎合してきたからです。

 

自分の意思、気持ち、好みを表現することは

あまり良くないことだと思い込んでいました。

苦手な人が多くて辛いので、好き嫌いを感じないように

心を曖昧に濁すという工夫をしていたこともありました。

 

自分が何が好きで、何が嫌いかは 意外と

大切なことだったんだと思います。

 

人にどう思われるか気にして

気持ちがおかしくなってしまう前に、

自分の好き嫌いから導き出される意思も

ちゃんと見つめていきたいものです。