VALUE LIFE

生命を大切にする観点から、私の記憶、体験、知識などを綴ります。

人と人⑶

引っ込み思案の性格というものは

毎日 いちいち勇気の出番があり

失敗だ、また失敗だと小さな針が

その呪縛に重きを置いて、無駄な

緊張感とそこから逃れたいゆえの

無意味な行動の発生と焦りの時間で

さらに行動しない出来ない自分を

強化していくという傾向を持つと

自分を通して感じます。

 

 

コミュニケーションの失敗感から

いつまでも脱却しないままいることで

そんな自分への不信と周りへの

不安が大きくなっているのです。

 

それでも社会で生きていくのには

人と接することは必要で

必要以外にわたしも人と楽しく安心した

時間を過ごしたいと欲しているのです。

 

 

せめて 話しかけられやすい人でいようと

心掛けていた時期もありました。

それが功を奏することもあります。

 

 

そして 良い印象を持たれることや

好きになってもらえることは、とても

価値があるように思えました。

 

 

親が私に求めていた姿に近づいていくことが

もしかして結局 正解だったのかと

振り出しに戻されたような、息苦しく

打ち砕かれた思いになったこともあります。

 

 

新しい環境へ進み出たとしても

そこでどう人と関わったらいいかが

初めから難しくて苦しくなってしまい

周りが求めていそうな人物像なる

実態のないものを想定することで

自分がそれを満たせるように言動を

規制してコミュニケーションに臨むのが

最善の方法として固まっていきました。

 

けれども

 

もちろん勝手に想定した、相手にとって

心地よい人物に簡単になれるわけでもなければ

その想定が相手に求められているものでも

正解でもありませんから、全く無駄な

努力を、人しれず重ねているわけです。

 

 

そこには私の好みや価値観と関係がない

止むを得なく生じた人間関係や

クラスの席が近い等の偶発的なもの

一時的に多く会話を交わすことになる人

などのように、さらりと過ぎていく出会いも

同等に含まれています。

 

 

多くのエネルギーを投入して自分を調整し

一生懸命にその人から不満のでない私であることを

証明しようとしていたようなものです。

 

 

そんなことをしていると 自分が死んだ後に、

私のことをどんな人だったかという話が出たら

みんなが言うことが違うかもしれないと思い

その様子を思い浮かべたら

なんだか寂しい気持ちになりました。

 

 

自分がしていることに違和感がありましたが、

なぜかこれが最善だと思っているので、

一人で勝手に下手な接客業のような日々を

続けていました。

 

 

そういう努力は 人に勘違いされて、

好きでもない人に好かれたり

軽んじられて気遣われなくなったり

不自然な感じがあって違和感もたれたり

私と話してもつまらなさそうだったり

表面的な会話から先に進むことがなかったり

親切なのが当たり前な人として扱われたり

存在感のない好かれない人になっていく

自分自身が望んでいない自分像を

作り上げていくことになりました。

 

 

自分に課していた制限がこうして

自分にとっても楽しくない現実を作ってきました。

 

 

どうして楽しくないのかと言えば

人の本当の気持ちから遠くなっていったからです。

 

 

それは私の本当の気持ち、

相手の本当の気持ち

両方です。

 

 

自分が勝手に作ってきた自分の現在地の姿と

自分の本当の気持ちが一致していなくても

会話のために言葉にすること・・・

 

それが私には難しくなっていました。

 

でもそのままでいることに

そろそろもう耐えられなくなってきました。

 

 

 

 

ある日、子どもが学校での嫌なことに対して

一言だけ口にしました。

 

通常の私はもう 

子どもが次に言いたくなるまで

子どもの気持ちを荒立てないことだけ考え

何も言葉を繋げないのが定番でした。

 

 

でも、そのときは

そういう自分の「型」への違和感が出てきて

型の外側にいる 型のない自分が

ソワソワと何か言いたそうにしていました。

 

私は 思い切ってというか

何かのリズムや空気の決まった流れを

乱すように その件に対して思うことを

口に出しました。

 

 

子どもは機嫌が悪くなって

その日あまり おしゃべりもしないで

自分の部屋に行ってしまいましたが

今までのような挫折感はなく

針が私を延々と刺すこともなく

時が流れました。

 

 

やがて 子どもの様子から

私が口に出したことをダメージではなく

どちらかというと共感の部類として受け止め

高まった感情を自分で吐き出して

心の中を占めるその件を自分で無力化させて

大切な自分の時間に戻っていった雰囲気で

さらりと少し軽い顔をしているのを見て

悪いことではなかったと感じました。

 

 

それ以来、わたしは

自分が本当に思うことについて

もっと意識するようになりましたし、

人にどう思われてもいいやという気持ちも

少しは持てるようになりました。

 

 

思えば、

人の気持ちを気にするあまり

自分の気持ちなんかないものにして来た

過程があって、人と自分の会話のパズルが

噛み合うことが大事になっていました。

そして面倒くさくなっていました。

 

 

今のわたしは 以前よりも

本当の言葉を口にしていると思います。

 

 

独善的な会話を展開してしまって後悔したり

言葉を選ぶゆとりを持たずに話して失敗したり

満足な結果は まだ多くはないですが

人と人との関わりに対し、ハードルが下がりました。

 

 

たぶん

「私は本当はどんな人か」ということが

わたしが思っているよりも大事です。

 

 

そして いろいろな自分の中でも

どんな人でいたいかと再考するように

気持ちの向きが変わって来ました。

 

 

自分に対しても人に対しても

「会えてよかった」と思えるような

関係を作れる人は素敵だと思います。

そんな人のことが今は眩しいです。

 

 

そして私も、

人と人っていいなと思える時間を

増やしていこうと思います。