VALUE LIFE

生命を大切にする観点から、私の記憶、体験、知識などを綴ります。

長寿

母方の祖母は108歳まで生きました。

 

ずっと畑仕事をやっていて頭もしっかりしていて

生来の勝気さとユーモアはキレがあり、

話していると歳を感じさせないような人でした。

亡くなる2年前くらいまでは、

自分の部屋の手すりをゆっくりと伝って歩き、

伯父が室内に作ってくれたお手洗いにも、

なんとか自力で行けていました。

 

祖母の長寿は家族だけでなく

住んでいる地区にとっても喜び事としてお祝いされ、

旅先でたまたま出会った人からさえも

祝福と感嘆の言葉を受け取り、

更なる健康を祈られてきたはずでした。

 

でも祖母が寝る前に祈ることは

「どうか神様このまま天に召されて

明日の朝は目が覚めませんように、

よろしくお頼みいたします。」

なのだと、

翌朝まだ生きていることに、

喜びよりも勝る気持ちがあると教えてくれました。

 

 

子供の頃は、この祖母が苦手でした。

休みの日に家族で訪問すると、

季節ごとの郷土料理をみんなでいただきました。

大人たちのお喋りの賑わいの中で

大人も子供も

わさわさと食べ続け、

その時、食べが進んでいなければ、

遠慮せずもっと食べるように勧められます。

これは、もてなしです。

もてなす側の、祖母と伯母はもてなすのが上手でした。

子供の私にも、

たくさん食べるように勧めてくれました。

中でも祖母は、私がお腹いっぱいだと言っても、

最終的には

「それだけしか食べれんのか。」という言葉と共に、

勧めるを超えたやや強制に変わる瞬間から

表情から不機嫌になり、

私はやがて抵抗できなくなり、

怒りを押し殺しながら頑張って食べました。

 

祖母は戦争中

草やカエルまでも食べなければ生きられないような、

食料もままならぬ経験をしました。

だからこその、

「お腹いっぱい食べさせたい。」でした。

その強い思いに私は、飢えることなく、

いつでも食べていける道を選ぶよう、

きっと方向付けしてもらい、今日に至ります。

 

皮肉なことに、私は少食から大食へと移行していき、

その後アトピー性皮膚炎の発症をきっかけに、

この祖母の好意に素直に従えない人間になりました。

自分の意見を言うようにもなりました。

 

そんな私にも動じなかった祖母と、

祖父の看病で一緒に病院に泊まり込んだとき

たくさん話すことができました。

術後で食べられない祖父の横で躊躇している私に

昼食を食べるよう勧め、

自分も祖父に遠慮せず食べて、

自分の健康法の話をしたり、

私がした質問になんでも答えたりしていて、

嫌な感じの祖母の印象から

話しがいのある祖母と思うようになり、

その後ずいぶん手紙のやり取りをしていました。

 

 祖母が亡くなる一月前には、母もそれとなく、

見舞いにも行かなくてもいいよと言うようになり

静かに亡くなったことが伝えられ、

葬式は久しぶりに会う親戚縁者の集いのように

和やかな時間でした。

 

祖母への手紙にいつも必ず添える言葉は、

「長生きしてください」でしたが、

なんとなく

祖母が辛いけど生きているとわかってからは、

「お体大切にしてください。」

「ご自愛ください。」

と書きました。

 

100を超えた祖母の苦しみの理由に

「自分より若いものが亡くなり自分は生きている。」

という現実がありました。

 

その辺りから、祖母の気持ちは「長生き」を

受け止められなくなったのではないかと思います。

 

それでも、

私たちの近くに存在していてくれたこと、

その姿を記憶に残してくれたことが

残された者への力づけになったことは確かで

長寿の祝福の記憶とともに

祖母に伝えたいことです。